20201115
生活が安定してきたら、絶対に革靴を買おうと決めていた。
24歳の誕生日。
自分へのプレゼントに革靴を買いに行ってます。
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私は嫌になるほど自由だった。
高校の現代文の授業で、僕の殆どのコアパーツは形成されたといっても過言ではない。死生観や軸足、酒の飲み方やオナニーの仕方まで本当に全部。
無論、高校の頃に酒は飲めないし下品な授業があったわけでもないんだけれど(いや、なくはなかったか?)。
テーマとなる教本を元に先生が広げていく話は底抜けに面白かった。物語を語る先生の目線から、先生の生き方や立ち振る舞いの情景が浮かぶようで。
安部工房の『鞄』と出会ったのも、高校の頃。
もしかしたら、読んだことのある人も多いのではないだろうか。
もし読んだことがないなら、読んできて欲しい。僕に確かにかいつまんで説明できるような自信はない。
この作品の中では、やはりタイトルにもなっている『鞄』が重要なんだ。
鞄
半年以上前に出した求人に応募してきたその青年の鞄は大きく、ひょいと持ち上げられるモノではない。そんな鞄を持って歩くと、急な坂は厳しいから歩ける道は限られる。そうして丁度いい場所にあったからということで、応募してきたと。
では、そんな鞄を置いてしまえば選択肢は広がるわけなんだけど、「ありえない仮説だ」「いつだってやめられるからこそ、やめない」と青年は答える。
云々あって、可笑しそうに見ていた「私」がその鞄を持ち上げてみる。しばらく歩くと肩や腰に来て歩けなくなる。元の道を戻ろうとしても歩けない。歩ける道を行くと、いくらでも歩ける。
不安はなかった。
「鞄が導いてくれている。」
ただ歩き続けていればよく、「選ぶ道がなければ迷うこともない。私は嫌になる程自由だった。」
自由ってなんだろう。
この中で描かれている『自由』について、考えた。
置くことだってできる鞄の重さによって、歩ける道が限られるということは『不自由さ』となるはずなのに。
歩く道を選ぶことが『自由』なのではない。
どんな道を歩くかを選ぶことが『自由』なのだ。
頑張る。と決めたら頑張る以外の道を断つ。
こうやって生きたいと決めたら、それ以外の道はなかったものとする。
迷う暇があるなら、いや確かなところで迷うために、歩きたい。
この作品の中で青年は鞄を持つことを選んだ。
そこにある不自由さは、『拘り』で。そのまま『自由』なのではないか。
僕にとっての鞄は靴だ。
今まで道を選んできた。道に迷ってきた。
進むべきか、戻るべきかすら迷った。
立ち止まることだけはなかったが、かなり迷走していたようにも思える。
僕は、このタイミングで自分の進んでいく道を選びたい。決めたい。拘りたい。覚悟を決めたい。
鞄を買おうかとも思ったのだが、僕は鞄はかなり機能性重視なのでピンとこない。
そんなわけで代替案として靴にしてみた。
なんでNAOTの革靴にしたのか。
とかは、また今度話すよ。